「できるまで」と「時間」の関係

今朝(2025/05/14)の朝日小学生新聞の一面に、こんな一コマ漫画がありました。

「ゲームの時間は30分だからね!」
「勉強も時間制限してくれたらなぁ」
「それな」

記事の趣旨は、「それな」という流行語(2015年頃から流行りだし、近年は小学生も使うようになった)についてです。
ですが、私が注目したのは、その前の2つのセリフです。

ここで問題です。
勉強は
1.できる(わかる)までやる
2.規定の回数・時間やる
のどちらでしょう?

おそらくほとんどの人が1.と答えます。
では次の問題です。
ゲームは
1.できる(クリアする)までやる
2.規定の回数・時間やる
のどちらでしょう?

おそらくほとんどの親が2.と答えます。
でも、答えながらモヤッとした人、あなたのその葛藤が真の正解です。

これは言葉遊びでありつつも、論理的にみれば明らかにこれはダブルスタンダード(対象によって適用基準を変えること)です。
ダブルスタンダードは、子どもの教育にとってタブーです。もちろん社会に出れば、こんなダブルスタンダードは溢れているし、清濁併せ呑む、大事の前の小事など、いくらでもごまかさなければやっていけない事態には遭遇します。
でも、少なくとも「教育」という狭い、かつ重要な世界においては、ダブルスタンダードは極力なくすべきだと私は考えます。

では、このダブルスタンダードを排するために、ゲームも「1.できる(クリアする)までやる」のか?
それは思考停止というものです。

私は、「家帰ってゲームやりたい」が口癖の生徒に尋ねたことがあります。「どんな気持ちでゲームやるの?」と。

その子は、勉強に向かう態度は不真面目で常に斜に構えていて、やる気のムラッ気がすごくある子でした。
そのくせ勘が鋭く、時折、他の生徒さんの面倒を見なくていいタイミングでじっくり横について支援してあげると、ものすごい理解の速さと発想の豊かさを見せる子でした。

彼のさきほどの質問への答えはこうです(色々深掘りはしましたが簡潔に言うと)

「ストーリーの先を見たいときと、ただの暇つぶしのときがある」

前者はわかりますね。誰でもある衝動・欲求です。そしてこれは、先程の質問における「1.できる(クリアする)までやる」につながります。

後者についてさらに尋ねました。「暇つぶしのときは、ゲームをやっているとどうなる?」

「飽きる、けど惰性で続ける」

はい来ました。これです。ダブルスタンダードの正体見たり。

プログラミングやブロック、イラストなど、当教室で教えている制作系は、完成まで持っていく支援をするのが理想です。塾の方も、わかるまで教えるのが理想です。しかし授業には決められた時間があり、途中でも終わらせないといけない場面があります。例え子どものためと思っていても、過度で承諾のない時間延長は、やはりこれも(時間通りに終わるときと延長するときの判断の差は何なのかという)ダブルスタンダードですし、ご家庭の都合にも悪影響です。

理想は「できるまで・わかるまで」ですがもちろん現実問題として当教室でも一回の時間は決まっているので、終わらなければ一旦やめなければなりません。学校(公教育)と違い、当教室の場合は個別指導(当教室では、「できるまで・わかるまで先には進まない」というやり方を徹底しています)が基本ですので、「また来週ね!」という方法が残されていますが、それでもなお、いまその瞬間、集中して取り組んでいた子どもにとっては不完全燃焼でしょう。いつもそこは悩みながらやっています。

仕事でもそうです。どんな仕事でも決められた時間(期限)内に、それなり・・・・の結果を出し続けないとプロとは言えません。100%できるときはいいですが、どんな場面でも100%を目指すのは現実的ではありません。

話を戻しましょう。

ゲームをするという行為を、時間の無駄遣い、頭が悪くなるなどと単純に断ずるのではなく、目的があるゲームのプレイに対しては、目的を達成することへの共感・理解と、現実的な時間制限の中でどうやって目標達成するかという支援をしてあげればいいんです。

「その先が見たい」という欲求を達成するために、ゲームの腕、反射神経、時間、体力、それらの限られたリソースを駆使する。
そして、保護者はその支援をする。立派な教育です、これ。

「できるまで」と「時間」、永遠の課題です。

それではみなさん、楽しいゲームライフを。

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