フリースクールとオルタナティブスクール

おるとたぶフリースクール

当校のコンセプトとして「塾なの?塾じゃないの?」(pdf)を掲げています。
ここで子どもたちに何を提供するのか、機能ではなく価値としてです。究極は、「一人ひとりに合わせた内容」ということに尽きます。そのために「あれもこれも教えたい」になってしまって、お店(教室)としては、ぼんやりしてしまっている印象もあります。私の迷いをそのまま、コンセプトにしたといってもいいです。

ありていに、あるいはかっこよく言うと「子供の居場所、家庭でも学校でもない第三の居場所」ということになるのですが、これ、かっこいいけど輪郭が見えてこない。

教育業界的には、「フリースクール」なんて言葉が使われるようになって20年くらい?は経つようですが、文科省が大々的に言い出したのが2015年、一般的な認知が広がってきたのはここ3,4年のような気がします。
それが証拠に、wikipediaや辞書、広辞苑なんかを開いても、解釈に幅があります。つまり歴史が浅いので完全には形が定まっていないと言えます。

なので、人によって受け止めが異なるという事をわかったうえで、

うち、フリースクールはじめます。


不登校とは何なのか

うちが目指す姿をお伝えするのに、まずはフリースクールの接頭語のようになっている「不登校」についての私の考えを述べます。

「不登校」は悪では「ない」ですよね。少なくとも私はそう思います。
「不登校」は少数派ですか? 少数派ですよね。これも私はそう思います。
では「少数派」は「悪」ですか??? んなわけないです。これは断言しておきましょう。
ここが、わかっていても感情が混乱するところなんです。
社会を効率的に機能させていく上で、少数派の意見をどこまで拾うかは程度問題があり、止むを得ず不便な思いをしている少数派というのは社会の様々なところに居ます。
例えば、その代表格が「左利き」。私の父は左利きで、矯正のために左手を祖父に縛られて生活したことがあるそうです(昭和初期です)。私も左利きですが、幸いなことにそんな目には会いませんでした。
まあただ、自動改札機は右利き用ですし、自販機のコイン挿入口は右側です。レストランに入れば箸は右手で持つようにセットされます。そんな些細な不便はいくらでもあります。少数派なので、いちいち気にしてません。
最近だと性的マイノリティが思い浮かぶでしょう。色々あるし人それぞれですが、いずれも少数派であって悪ではない。想像してください。例えばあなたが、体の性と心の性が異なる場合で、男女別のトイレはどちらも利用しにくく「だれでもトイレ」あるいは「多機能トイレ」を使わざるを得ないとしましょう。すると場所によっては多機能トイレそのものがないから不便を感じます。これが程度問題です。少数派のために、すべての施設に多機能トイレを作るのは現実的ではないでしょう。それは「あなたが悪だからそういう仕打ちを受けている」ということではなく、社会の効率を考えたら止むを得ないだけです。

話を不登校に戻します。
極論、私は不登校が多数派になる社会を夢見てます、というと言い過ぎか。
夢見るのは、「いつ、どこで、どんな教育を受けてもいい社会」ですね。
私にとって、「不登校」は、周りと少し違う価値観を持っている子どもの「消去法による選択」、と考えています。だから、そこに「積極的選択」を追加してあげたい。
もちろん、いま現在、お子さんが不登校となって深刻に悩んでいらっしゃる保護者の方からすれば、大変、軽々しい失礼な物言いかもしれません。
私が思うのは、野球だったら左利きの子には右手にはめるグラブをプレゼントするし、(アンパンマンではなく)「ばいきんまん」が好きだったらばいきんまんのぬいぐるみを買ってあげる、という選択肢がなんら不自然ではないことと同じにしたい、ということです。

義務教育とは。言葉の意味を考える。

「義務」は「しなければならない」ですが、義務教育とは誰が何をしなければならないのでしょうか?

×子どもが勉強しなければならない
◯すべての国民が、保護する子どもに教育を受けさせなければならない

となっています。簡単に言うと親に義務があります。
では、これに対応する権利はどうでしょう?

×子どもが教育を受ける権利
◯国が、すべての国民に対して、その保護する子どもに教育を受けさせる権利

が正解です。わかりにくくてすみません。「国が親に命令できる」と考えて差し支えないと思います。つまり、義務教育において、子どもは何にも縛られていないんですね。
では、子どもが教育を受ける権利はないのかと言うとそうではなくて、これは基本的人権に含まれています。なので国民(子ども)は国に対して、自分が教育を受ける権利を当然に主張できるわけです。
まあなのでブーメランじゃないですけど、国民(子ども)から権利を主張された国は、その国民(子ども)を保護する立場の人(保護者)に命令できる、というふうにつながります。

で、ここからが本題ですよ。
言葉の意味が理解できたならば、こうなるわけです。

×義務教育=子どもは小学校と中学校にいか「ねばならない」
◯義務教育=保護者は子どもに教育を「与える」義務がある。

ここで大事なのは、憲法には与える教育の「中身や方法」については書いてないということです。そこは与える側の自由です。
この憲法を解釈する役割となった80年前のお役人さんは、中身や方法について考えました。たぶんその人は「(子を保護する)すべての国民に義務がある」という部分に注目し、ならばと、貧富の差や住んでいる場所等に関係なく、教育が実施できるように様々な法律・制度を設けます。その結果として、現在の小学校・中学校という制度になっているに「過ぎません」。
戦後間もない国の状況を想像すれば、方法として集団教育でしか現実的ではなかったし、教える内容も形の決まったものになるのは当然の帰結と言えます。
付け加えるならば、その後、高度成長に向かっていく国の方向性において、集団行動の最適化と平均レベルの向上というのが時代にマッチしていたことも挙げられるでしょう。
で、時はそこから80年が過ぎました。ならば憲法(義務)の、「与える」実現方法はもっと選択肢があっていい。
私の考える義務教育はそういうことです。

目指す姿

当教室が、子どもにとって、いわゆる公教育では「権利(子どもなんで要求/欲求と置き換えてもいいと思ってます)が満たされない」こと、に対しての、選択肢の一つになればいいんです。
集団が苦手、勉強がわからない、学びたいのはそれじゃない、etc,etc
「じゃあこれだったらどう?」
を提供したい。

保護者の方にとっては、子どもが将来、「私は教育を受ける権利を行使してフリースクールに通った」と、自信と誇りを持つことと、「私は不登校で親に迷惑をかけた」と思って生きること、それを「与える」選択肢として候補に挙げてほしいのです。
フリースクールは、学校の劣化版じゃありません。単に異なる選択肢です。それが目指す姿。
お米の代わりの粟やヒエではなく、ライスかパンか、チキンかビーフかということです。

一個だけ。

ここで一個、義務を果たす保護者にとって問題なのは、国が制度化した公教育は無償であるということ(給食費や教材費や保護者会費なんてのがあって現実にはお金かかりますけどね)があります。
うちは、有償です。そこだけはすみません、少数派の不便ということなんです。偉そうなことを書きましたが、ここへ来て「不登校は少数派である」現実が目を覚ますわけです。すみません。
繰り返しますが、左利きに生まれたのは誰が悪いわけでもないのと同じで、ただし少数派だから社会において十全な対応(この場合は無償ということ)を得られないときもある、ということです。でも、子どもが左利きだからといって左手を縛って生活させたくは、ないでしょう?

内容や料金、時間は?

「読書」「工作」「パソコン」「ゲーム」と思ってます。
詳しくはこちらのページで

おまけ:オルタナティブスクール

オルタナティブとは、「もうひとつの」という意味です。
オルタナティブスクールとは、「伝統的な学校とは異なる教育方針を持った学校」という意味で作られた概念だそうで、イギリスやドイツには古くからあるようです。実際そんなに詳しくは理解してないんですが、響き的は私の目指すのはこれかなぁと思っているのです。だけど、わかりにくいので、当面は「フリースクール」という呼称をメインにします。
でも、ただのフリースクールだと、固有の名前がない感じなんで、名前をつけることにします。そこで思い浮かんだのが、Windows PCのキーボード配列にある「ALTキー」はこの、「オルタナティブ」の略称であるということです。読みは、アルトキーだと思っている人が意外と多いですがオルトキーです。
これは、同じキーに「もうひとつの役を与える」ときに同時押しします。ALT+F4とか、ALT+TABとか。
あ、これだわ。命名「おるとたぶフリースクール」

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いまのところは、少しずつ利用が始まっています。塾やプログラミング教室のように料金や時間割を制度化していないので、個別相談となります。

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